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剥き出しで考えてみる。「生きる」は「ねばならない」か?

どうも最近、このブログに「アシュリー事件」を検索用語にして
こられる方が多い。

っても、いろんなアクセス解析を使ってみても
腐人がダメダメで、そのデータを読みこなせないので、

(A)たまたま「アシュリー事件」でこのブログに出会った。
でも、お気に入りに登録するのはヤだから、
毎回、「アシュリー事件」で検索してやってきてる

のか

(B)「アシュリー事件」についての記事がよみたくて
検索してやってきてる

のか、どっちなのかがよくわからん(~o~)

後者なら、こういう意見もあるのね、で読まれてる
ってことでいいんだが、
前者の場合、その行為によって、
「アシュリー事件」で検索かけたら
腐人のブログの検索順位が上位にくる結果を導いてるんだが、
いいんでしょうか・・・?
ってな疑問がなきにしもあらず。

だって、腐人の意見って、たぶん異端だもん。

特に本音を表にださない日本においては、
仮に腹ん中で思ってても、口に出しては言おうとせん意見だろう。

違うかな?

腐人としては、
正論に駆逐されがちな「こういう意見」もあるんだよ、という
一石を投じられればいいと思ってるだけなんで
別にいいんだけど、
昨日先送りした、『聲の形』のこともあるので、
まぁ、その辺をつらつら書こうかなというのが
本日の主旨であーる。

生きる、ということであれば、
ホントは、『銀の海 金の大地』も交えたかったんだが
そこまで広げると収拾つかんくなるけん、やめとこう。


腐人は常々、率直にきいてみたいなと思うことがあるんだが、

「介護、したいですか?」

「介護、されたいですか?」

さらにいえば、

「どれだけ大変な介護をしてでも、
 その人に生きて欲しいと思ってるならいいんですが
 されてる側もそうされてでも生きたいと
 思ってるんでしょうか?」


「介護しない罪悪感から、介護の義務感から、
 介護をしてないですか?
 そうだとすると、それをされてる側は、
 どう思ってるんでしょうか?」



こうやってどんどんどんどんつっこんでいくと、
結局たどりつくのは、本日のタイトル、
『「生きる」は「ねばならない」ことなのか?』
なんだよなぁ・・・。


ちょいと話がそれますが、前に発言小町で
「毒親持ちじゃない方」というテーマのトピがあった。

トピそのものは、毒親育ちのトピ主さんが
毒親持ちでない人に、毒親やその行為についてどう思うのか
毒親持ちの人にはどういうことがあったのかがききたい、
という感じのもんだった。

で、レスの中に、
「親が介護状態になったと想像して、
 大変だけど絶対にほって置けないと素直に感じる方は
 毒親お持ちじゃないと思います。」
ってのがあったんですよ。

実のところ、腐人はこのご意見に対して、
「へ?」と思ってしまった。

腐人は家族に恵まれて、全く毒親とは無縁の状況ですが、
そんな風には思わないもん。

そりゃ、できることはするけど、
仕事を続けることのが最優先。
働いて稼ぐのは自分じゃなきゃできないが、
介護は自分じゃなくたってできる。

公的機関、施設、ヘルパーを頼むなり、
外注できるとこは外注で済ませまっせ。
そのためにクソ高けぇ社会保障費を徴収されてんだから。

それに、稼いでいれば、自分の生活も介護も両立できるが
介護オンリーにしたら、共倒れでしょ?
そんでもって、出せる金には限りがあるんだから、
不満があろうが、我慢してもらう。

何をどうすべきか、
ぐだぐだゆーまでもなく明々白々じゃん。

ってか、逆に、そういう自分の生活をわやにしてまで
介護しようとする思考回路こそ、
それこそ「罪悪感」や「義務感」「責任感」、
「感謝して欲しい」「愛して欲しい」ってな気持ちに
囚われてると思うがなぁ・・・(~_~)。

ってなことゆーと、
「愛されて育った人は、無神経で傲慢な発言をする」
とか言われちゃうんだろな。

ま、いっけど。

ただ、自分の心の中にあるものと
いつかは正対しないと、
いつまでもそこに囚われて、抜け出せないんだけどね。

ちなみにこの話、腐人家ではオープンにやってます。

なので、その流れで、
周囲の「老老介護」をやってる人が
「殺人事件とか起こるのわかる。
 そういう気持ちになる」
といったり、
スパゲティ状態で、生かされてる映像や
認知症の介護の大変さの映像をみると、
率直なところの意見、つまり
「ああはなりたくない」
という意見が交わされる。


そこで腐人は疑問に思うわけだ。

本音のところで、いったいどれだけの人が
「ああはなりたくない。
 なる前に死ねたらいい」
と思っているのか。

もし多数の人が、本音のところでそう思ってるなら、
なりそうな予兆がでたら、
自分で死を選ぶ制度ができたら、万々歳じゃねぇの?と。

末期だから安楽死、とまで限定的にせず、
自分の尊厳を守った死を、広範囲に適応させよう!って議論が
なーして起こらんのだかなぁ・・・と
ホント、心底疑問に思うわ。


ってな話の後に、『聲の形』をもってくると、
ちょっとアレなんですが、まぁいいや。

書誌情報をもう一度書くと、
(957)マンガ 『聲の形 5』 大今良時

腐人はこの話、作者の大今さんが
いったいどういう終着を目指してるのか、
それが知りたくて、読んでいる。

が、血族は、
「もう無理・・・」
と、白旗をあげた。

まーこの10代のバカモノ・・・
もとい、ワカモノたちのエピソードは、
読むのがイヤになるところはあるけど。

でも、10代ってこんなもんじゃね?

自分のバカさと、恥部を、モロだしにして歩いてるのに
それに気づいてないのは自分だけっちゅー。

あああああ・・・ゆっててなんだが、
もし10代の頃に日記なんか書いてたりしたら
即、焼却炉に放り込みたい!!

ってことを、今、SNSでそれを公表してる10代の子らは、
××年後に思うんだろうか?

ま、そりゃどーでもええわ。

ただ、人の成長過程において、こーゆー経験をつんでかんと
ろくでもない大人になるからなぁ。

ってことで流し読みしてたんだけど、
今回のラストで、うーんと思ってしまった。


腐人はさ、前から何度も言ってるけど、
自殺を否定したくない人なのね。

でもって、ニンゲンってのは、どんだけ取り繕おうが、
結局は、自分のためにしか生きないもんだと思ってる。

そうすると、だ。

「私さえいなければ、皆が幸せになる」
だとか、
「私がいるから、皆が不幸だ」
という考え、
自分に酔っ払った視点からの意見になるわけ。

そこを、ちゃんと自分を客観視した視点でみると、
「周囲にそうやって負担と思われてる、
 そのことが、しんどい」

ってことになるんだよね。

そうなると、
その子が感じてる「しんどさ」を、あなたが肩代わりできるか、
それに勝る「生きてて楽しい、嬉しい」を提供してあげられるか、
そのどちらかができないなら
その子に生きてと願う、
あなたの『「生きる」は、「ねばならない」ことだ』
って思いは、ものすごい身勝手な押し付けにみえてくる。

ま、結局んとこ、本人がどうなのか、に尽きるのかなぁ。

やりたいならすりゃいい、
やりたくないならしなきゃいい、
こーゆー単純なことだと思うんだけど。

だから、周囲がどうこう、ではなく、
本人がどうなのか、それを尊重して欲しいんだけどなぁ。

ま、本人が意思表示ができない場合どうするか、
ってのはあるから、
全国民に、年に1度、意思表示を義務化させたら?
とか思っちゃうけどね。

事故や事件で、
いつ意思表示ができなくなるとも限らないんだし。


それにしても、あまりに選択肢がない現状は、
ホントになんとかならんもんかなと、つくづく思う。

生きるって、そんなにいいもんですかねぇ?

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[ 2014/10/21 ] 腹黒日記&読書録 | TB(-) | CM(-)
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